「読書について」
- 作者: ショウペンハウエル,Arthur Schopenhauer,斎藤忍随
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1983/07
- メディア: 文庫
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半年くらい前、めちゃめちゃ本読んだ時期があって、
そのとき、どうせ読むなら身になる読み方ををしたいと思って
読書そのものについて書かれた本を古いのから新しいのまで何冊か読んだ。
これはその一冊。
この筆者、東洋思想で有名な19世紀の哲学者なのよね。
内容は150年以上前のもの、日本語訳も古臭く、なかなか読みづらかった。
頑固ジジイのお説教って感じ。
以下まとめ
思索の道から遠ざかるのを避けるには、多読をつつしめ読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた後を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が先生の下書きをなぞるようなもので、読書の際にはものを考える苦労はほとんどない。
事柄そのものについて書くものと、書くために書く者を見極めよ
原典にあたれ。引用は意図によって歪められる。
学識豊かな人の言葉は明晰であり、学識の乏しさにつれて、その発言は曖昧になるだろう。
言葉の量には限界点がある。度が過ぎれば、伝達されるべき思想は不明瞭なものとなっていく。形容詞は名詞の敵なり。
概念が少し異なるなら、言葉も少し異なる必要があり、その微妙なニュアンスを表せる言語は優秀といえる。
たぶん「本ばっかり読んでると自分の頭で考えなくなる」ってことがショウペンハウエルさんの一番言いたかったこと。
たしかにそう言われてみれば、僕の考えはどこか本で読んだ内容の継ぎ合わせで出来ている。
ただ、それは僕が内容に共感できたからその本を自分の考えの部品のひとつに選んだのであって、
そこで判断基準となっている「共感」は僕オリジナルの経験から生まれているのだから、
部品を組み合わせて完成したものはやはりオリジナルではないのかと反論したかったり。
本を読みながら考えること、あんまり悪いことだと思わないなあ。
自分の頭の中だけで考えられることなんてたかが知れてると思うし。
言語化された価値観を「部品の組み合わせによるプラモデル」であると考えるなら、
いくつか重要な部品が、自分のハンドメイドであるなら、たぶん「味が出る」んだよね。
誰かにそれを語る機会がある時は、自分の言葉を使うことを意識したいですな。
インプットは堅い文章であっても、それを咀嚼して、流動食のような形でアウトプットできる人になりたい。
げろげろ。
ちなみに著者はこんな人